photo essay. 幸せは、誰かがつくるものではない。
photo by suguri
word by suguri
『幸せ』というものについて
人はいつから思いをはせるようになるのだろうか。
私の場合は子どもの頃のことを思い返してみても
「ああ、この時だな」
なんて決定的な大げさなエピソードなどは特になく
ただ、なんとなく大人に近づくにつれ「自分の幸せ」というものは
一体なんなのだろうか。
と漠然と狭い世界の中で、
そしてその世界の中のものだけで物事を考えていたように思うのです。
幸せの捉え方などというものはそれぞれに違い、
それに対する向き合い方のスタンスもまた同じく違うもの。
人の持ち合わせる特性は
育ってきた環境が土台を作っていき
心を形成しながら誰と出会い、
それが、痛みなのか喜びなのか
どちらにしても生きている環境の中で
人に与えられたもの、心に入り込んできたものによって
どんな人になっていくのかが決まる。
決まり、そしてそれは生きていく限り
普遍的に続いていくものだと思っている。
確かに、大人になっていくと
ある程度のその人なりの色が固定されていく
自分というものが見えてくるため
良くも悪くも世の中との付き合い方もわかるようになってくる。
それでもやはり、私が生きてきて得たものは
誰のものでもなく、私のものであるため
良い思い出も苦い記憶も
その全てが同じものを持ち合わせている人など存在しないという
当たり前の常識の中で
私が考える「幸せ」と
同じように違う存在である誰かの考える「幸せ」は
まるで違う。そしてどこか同じであるとも思う。
目に見えない概念はどこまでいっても固定された答えなどなく
一つの顔が見えて来れば、
同時に違う側面が顔を出す。
終わりがなく、どこまでも続く。
だからこそ、
要は自分がどこに足をつけるか決めることが一つの正解となる。
そしてそれは、誰にとって一番なのか、みんなにとってどうなのか。
それに縛られる必要はなく、
「自分」が全て責任を持って決めることが鍵である。
心の形成が今現在進んでいる写真の彼女のことは
彼女が小学校2年生の時に出会っている。
この6年間の間に
私のそれとは比較にならないほどの様々な初めてを
彼女はその体と心で感じ吸収し自分の一部にしてきただろう。
そしてそれはこれからも続いていく。
彼女が今現在の自分を表現するものの一つにアルトサックス
というツールが用いられている。
それを一つのパイプラインにしながら
様々な人と出会い、新しい自分を見つけ
自己を確立していく。
その過程の中で
いくつもの願いを叶え
その度に新しい願いが生まれ
思うようにならないことに悩み
今の自分を否定しながら
自分を好きになっていける道を歩んでいくだろう。
幸せについて、それぞれの見解がある中で
ただただ単純に思うことは
生きている環境、共に過ごしている人たちとの関係性も含め
自分を好きだと言える自分を作り出せた時
なのだろうと、そう思う。
ローキーなシルエット風を意識したのは
彼女のスラッとした綺麗な体のラインがあったから
少し大人に近づいた彼女に、音楽をする自分
という新しい自分との出会いに
「格好良さ」を感じて欲しかったから。
多感な今のこの時期に
自分自身がどう見えてくるのか。
そういった意味では
彼女の記憶に留まり、自分を認め肯定し好きになる1枚に
なってくれたように思う。