03.photo essay
photo by suguri
write by suguri
休日に街を歩いている。
秋が深まりはじめたこの時期は
太陽が傾き始めるのも早く
午後3時を回れば
もう夕方を感じる美しい光が
人々に差し込みアスファルトに長い影を落とす。
無人のベビーカーを押しながら歩く父親と
手を繋いでいる1才半ほどの男の子と母親
そのキラキラとした光の中に入り込んだ途端
親子の日常の中に
ドラマティックな演出が加わる。
家族写真が、うちにはなかった。
大人になってから思うのは、
やはり1枚くらいは家族みんなが写る姿を見てみたかったというものだ。
なぜか、と問われれば
なんとなく。
とぼんやり答えてしまいそうなほどふわっとしている為
渇望するほどのことではないけれど。
場所も構図も完璧で最高の笑顔がそこになくてもいい。
誰かが一人だけ不機嫌そうな顔をしていてもいい。
母や父が自分の写りを気に入っていなくてもいい。
誰かがひどい顔で泣いていてもいい。
これが私が育った家族。
私を創った家族。
当たり前だけど、もう二度と出会うことがない
家族の姿がきっとその瞬間瞬間にあるだろう。
幼い頃の自分の気持ちや家族の関係性や
当時の生活の色を今同じように感じることがない分、
その引き出しを思い出すツールとなる写真に夢を乗せている。
「写真は未来への宝物」
たくさんの写真館さんが全国にある中で
この気持ちを持っていない写真館はほぼ存在しないだろう。
私の小さな欲求は叶える手段がないからこそ
いつまでもコッソリくすぶりながら持ち続けている。
だがその反面、
なくても生活に困ることはない。というのも確かだ。
なくても家族への愛情と感謝の気持ちは変わらずにあるのだから。
家族写真があったからと言って、
学生時代の反抗期で、やはり母を困らせたりもしただろうし
父とのたった一度の大喧嘩もしていただろう。
それでもやはり、
幼い頃の家族の姿をみたかった。
我が家の家族写真をみてみたい。
その小さな欲求はいつまでも消えることはないのだろう。
理想の家族写真とは
家族写真にルールは原則ないだろう。
良くも悪くも自由な発想でどんなスタイルでも
それが家族写真なのであれば、
家族写真となるのだ。
それでも
家族写真の定義とは何かと考えることがある。
それは一般的なものではなく、
私の考える家族写真とは、何か。という方が正しい言い方だ。
良く見える写真には必ず理由がある。
VeryveryVeryでは写真を構成する要素を12個に分類しており
その数が多ければ多いほど
良い写真に近づいていくと定めている。
家族写真のように複数人の人物が写真に収まる場合
人の数や背の高さ体格なども判断し
ポーズを決めバランスを取ることも必要
また、自然光を活かした場所においては
季節、天候、時間によって光の強さ、量、向き、角度なども
様々になってくる為
選ぶポイントも変わっていく
人数や子供達の性格や、撮影に対してのその時のテンション
様々な判断要素がある中で
基本的に私が最初に考えるのはやはり光だ。
人や背景など判断要素がいくつもある中で
その全てのアベレージをあげ、より輝かせるのは光だと考えているかだ。
そして、それと同じくらい重要視したいと思っているのが
溢れ出す家族の『日常』だ。
まるで日常の中のような一コマ
Veryグループ代表の内山社長は
VeryveryVeryの写真に『日常の中の一コマ』というテーマを置きたい。
と話をした。
「日常」
という言葉だけピックアップすれば
簡単に理解することはできるが、
『その家族の日常』
と対象が定まった途端にとても難関なものになる。
光の選択をし
バランスを綺麗にとり
レンズの選択もフレミングも完璧。
そして笑顔を引き出す。
だが
それがちゃんとできても、
型にはめ込んだ写真ばかりでは
その家族が持ち合わせる個性はきっと輝かないだろう。
ここから必要になってくるのは
その家族のどこがクローズアップされたら素敵なのかを感じる力と観察力、
そして引き出す人間力。
私にまだまだ足りない力でもある。
休日の夕暮れ時の街で見かけたあの日常は
外部の目でとらえた後ろ姿の3人家族
人物の比率は長方形の中のごく一部
構成要素のほとんどを占めるのは
『光』
それはそれで素敵だけれど
私ではなくても誰でも撮れる写真となるだろう。
主観を混ぜた家族への理解と解釈が入って
自由で伸びやかにその家族が生きる
そんな日常を見れる目を養っていきたいと強く思う。